〈こうして、完全に不正な人間には完全な不正を与えて、何ひとつ引き去ってはなりません。彼は最大の悪事をはたらきながら、正義にかけては最大の評判を、自分のために確保できる人であると考えなければなりません。そして万が一しくじるようなことがあっても、その取り返しをつける能力をもっていると考えなければなりません。すなわち、自分がおかした不正の何かがあばかれた場合には、人を説得しおおせるだけの弁論の能力をもち、力ずくで押さえなければならぬ場合には、自分の勇気とたくましさにより、また味方と金を用意することにより、相手を押えつけるだけの実力をもっている者と考えなければなりません。 さて、不正な人間をこのように想定したうえで、その横にこんどは正しい人間を──単純で、気だかくて、アイスキュロスの言い方を借りれば『善き人と思われることではなく、善き人であることを望む』ような人間を──議論のなかで並べて置いてみましょう。正しい人間からは、この<思われる>を取り去らなければなりません。なぜなら、もしも正しい人間だと思われようものなら、その評判のためにさまざまの名誉や褒美が彼に与えられることになるでしょう。そうすると、彼が正しい人であるのは<正義>そのもののためなのか、それともそういった褒美や名誉のためなのか、はっきりしなくなるからです。こうして一切のものを剥ぎとって裸にし、ただ<正義>だけを残してやって、先に想定した人間と正反対の状態に置かねばなりません。すなわち、何ひとつ不正をはたらかないのに、不正であるという最大の評判を受けさせるのです。そうすれば彼は、悪評や、悪評のもたらすさまざまの結果のためにへなへなにならないということによって、その<正義>のほどが完全に吟味されることになるでしょう。 (略) すべての人々が異口同音にくり返し語るのは、節制や正義はたしかに美しい、しかしそれは困難で骨の折れるものだ、これに対して放埓や不正は快いものであり、たやすく自分のものとなる、それが醜いとされるのは世間の思わくと法律・習慣のうえのことにすぎないのだ、ということです。彼らはまた、不正な事柄のほうが多くの場合正しい事柄よりも得になると言い、邪な人間であっても金その他の力をもっていれば、そういう人間のことを、公の場でも個人的な立場でも、何はばかるところなく、祝福し尊敬しようとします。他方、正しくても無力で貧乏な人間に対しては、前者とくらべてより善人であることは認めながらも、これを見下し、軽蔑しようとするものです。〉 (『プラトン全集11 国家』岩波書店 1976)
Jun 18,2025 🔖 編集
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